
「ねー、にぃーちゃん。にぃーちゃんっ!」
「……なんだよ」
朝から二十四回目を数えようとする呼びかけに、うんざりしながら、ノースはしぶしぶ返答した。
「今度は何だよ? また狼の群れでも見つけたか? それとも雲が魚の形してたとか、そん
なんじゃないだろうな……」
「ちがうよ〜」
と、背中でヒョウがニコニコしながら両手を上げる。ボリュームのある金髪が椰子の枝葉のように揺れて――まるで、頭に鳥の巣でも乗っけているような感じである。
「おなかへったから、これたべるんだー」
言いつつ、背負ったリュックサックから小袋を出し、さらに中から怪しげな形をした物体を取り出した。
ぐにゃぐにゃとした茶褐色の塊――どうやら溶けたチョコレートらしい。もとは動物の形でもしていたのだろう。もっとも現在は、動物は動物でもアメーバーかゾンビかという状態だが……。
とにかく、それを二、三個掴むと、揺れる馬上にも拘わらず立ち上がって、ノースの眼前に突き出した。
「にぃーちゃんにも、あげるぅー」
「いらん」
「なんでー?」
首を傾げる。
「おいしいよー、なんでー?」
「そんな怪しげな物体、口に入れる勇気はなーい」
「むぅー。じゃ、ひとりでたべちゃうよー」
「はいはい」
こんなやり取りが、幾度となく繰り返されていた。そしてその間にも、二人を乗せた葦毛の雄馬は、レイロー平原を東へ進んで行く――。
「…………しっかし暇だよなぁ」
と、これまた本日十五回目の台詞を漏らすと、ノースは欠伸を噛み殺して手綱を握り直した。
すでに街道からは大きく外れ、この先は道らしい道もない一面の草原地帯であった。海岸線どころか、マーカーバレイとやらの欠片も見えやしない。
あるものといえば、新緑の季節に生き生きと茂る緑と、其処此処に浮き出る白い岩石。それから蒼い空に浮かぶ雲と月――あとは、時折姿を見せる野生動物ぐらいなものである。
そんな状態が、もう半日近く続いていて――、
(ホント暇なんだよね……)
ハッキリ言って、ノースはかなり飽きていた。
(だいたい、こんな原っぱのド真ん中で何やってんだろな、俺は……)
とか内心思いつつ、何とはなしに空を見る。しかしその目線が遙か頭上の月まで達すると、急に――身震いするように首を振って、視線を前方に戻した。
眼前では、一対の耳がヒョコヒョコと左右に揺れている――それに向けて、頭の中で呟く。
(……疲れるよな……まったく)
ブルルッ――。
まるで意見するかのように、雄馬が鼻を鳴らした。
(お互い様……か。ま、そうだね)
苦笑する。
実際。単に退屈から来る倦怠感に捕らわれているだけのノースと違い、雄馬は心身共に疲れ果てていた。出発した当初はピンと前を向いて立っていた両耳も、今は髦に付くほど伏せてしまっていたし、心なしか速度も落ちてきている。
(そろそろ、休みたい?)
と、無言の問いかけをした――その時、
「ねー、にぃーちゃん」
二十五回目のお呼びが掛かった。
「…………」
ノースはため息を吐くと、振り返らずに答えた。
「――ったく、いらないって言ってるだろ」
「ちがうよ〜、チョコならもうたべちゃったもんねー」
「じゃ、なんだよ?」
話を早く打ち切りたい一心で訊き返す。正直、まともに相手をするのも苦痛であった。
そもそも、詐欺師であるノースにとって、理屈や論議が通じない存在ほど苦手なタイプはない。子供や動物に至っては、謂わば天敵だった。
「どーせ、また何かくだらないもの――」
「あのね〜」
と、間延びした声がノースのぼやきを遮る。
邪険にされていることに気付く様子もなく――むしろ、構ってもらって嬉しそうなのである。ヒョウは、後ろを向いたままあっけらかんと言った。
「あっちからね〜、レイダックがきたよー」
「――何だってっ!?」
さすがに、これには仰天して、ノースは慌てて振り向いた。
同時に、
ドォオオオーン――と、激しい振動が襲う。
「ぅわぁあっ!」
ヒョウが、分かっているんだか分かってないんだか――とにかく楽しんでるとしか思えない声を上げて、ノースの背中にしがみ付いた。
馬も、不安げに嘶いて、大きく体を揺らす。
「まったく! 冗談じゃないっ――」
手綱を引いて、なんとか制止させると、ノースは鞍の脇に括り付けておいた〈女神の杖〉を引き抜いた。
雄馬がこのまま暴れれば、長くて鋭利な杖が馬自身を傷つける恐れも出てくる。そうでなくても、疲れている彼にこれ以上の負担を強いるのは避けたかった。
女神の杖を右手に、そして手綱を左手で握る――いざとなったら、直接この杖で叩くつもりであった。リオルが見ていたら顔色が変わっただろうが、幸いにしてここにはいない。
「どっち行った?」
「ん――――っとね……あっち!」
ヒョウが乗り出して、肩越しに右前方を指差す。
その場所にノースが目を向けた瞬間――。
ドガァと、地面が火薬で爆砕したかのように弾け、もうもうと土埃が舞い上がった。
石や、土の塊や、その他諸々が、容赦なく降りかかる。
「――!」
と、その中に異様な気配を察知して、ノースはすかさず手綱を引いた。
「オラっ! 退くんだよっ」
掛け声とともに、馬の腹を一蹴りする。
雄馬が悲鳴を上げて静止位置から横に飛び退き――、
直後。馬体ギリギリを、黒いものが通過した。
「あっぶな……」
と、ノース。ちょっとひきながら、髪に降りかかった砂を払い、ヒョウを顧みる。
「――大丈夫か、おい?」
「うん! だいじょーぶだよ! たのしーねー!」
「……訊くんじゃなかった」
「ぇえー? なんでー?」
しかし、残念ながら大丈夫でないモノもいた。
一瞬の差で直撃コースからは外れていたが、激しい轟音と体をかすめた衝撃とで、馬は完全にパニックに陥っていた。涎を散らせて嘶くと、前足を跳ね上げ――なんとかこの状況から脱しようと暴れ出す。
「くそっ、おとなしくしてろってっの! お前が暴れるとよけいややこしくなるんだよ!」
ノースがそう言ったところで、所詮、相手は暴れ馬。正に『馬の耳に念仏』状態である。
葦毛の体表はどす黒く変色していたし、普段は黒い瞳で占められている両目も、白目を剥いて血走っていた。
「大したこと無いって、単に化け蛇が出ただけ。何にもなりゃしないよ――」
必死になだめていると、ヒョウが髪の毛を引っ張った。
「にぃーちゃん! きたきたっ! うしろ〜!」
「……あぁ。もう忙しいな!」
言われるがままに背後を見るが、舞い上がる土砂に遮られて視界はまるで利かない。それでもなるべくそちらの方角に注意するよう努め――と、その薄紫色の双眸が、ある地点に達したところで鋭く細まった。
刹那――。
ほとんど当てずっぽうで、ノースは〈女神の杖〉を砂煙の中に叩きつける。
ザクリ――と生々しい手応えがあり、悲鳴も上がった。
「シャガァァアアアーッ!」
この場合、聞き慣れたというべきか。
蛇特有の怒声とともに、煙幕を突き破って巨大な黒蛇が姿を現した。
その眉間には、女神の杖の銛のような一角が突き刺さっている。
「やたっ!」
と、ヒョウがガッツポーズをする。それとは対象的に、
「あーぁ。当たったよ……」
ノースは他人事のような顔をした。
「ごめん。当てるつもりなかったんで――ま、勘弁してね」
当然、嘘である。
「グゥ……お、おのれぇ……」
黒蛇は――完全に人間の声で――低く唸ると、杖が突き刺さったままの首を振り、まわりを薙ぎ払った。
「ふざけるなぁっ!」
怒りの声と共に、削られた地面の残骸――つまるところ草や土砂――が四方に散る。勢いで抜けた〈女神の杖〉も飛んできて――それが致命打となった。
バヒュヒィィーッ――!
雄馬がけたたましい叫びを上げる。転倒こそしなかったものの、すっかり気を動転させており、狂ったように何度も飛び跳ねた。
もはや乗りこなすといったレベルの話ではない。
隙間風の音に似た悲鳴を聞きながら、ノースは草の上に転がり落ちた――無論、彼の背中にピッタリとくっついている物体も、『前に習え』だ。
「ぅひょぁっ!」
ヒョウが、悲鳴のような、意味不明の声を上げる。
ガサリ――と茂みに重圧をかけて、すぐ傍に〈女神の杖〉が墜ちてくる。
文字通り『尾』を引きながら、雄馬がデタラメな方向へ駆け出して行く――。
「――ったくっ!」
ノースは、軽い眩暈がする頭を押さえつつ、舌打ちして体を起こした。そして、放り出された〈女神の杖〉を掻き込むように拾う――意外なことに、これだけの衝撃を受けながら、杖は全くの無傷であった。
「ほれほれっ、追っかけるぞ」
「うん。わかったっ!」
ノースが立ち上がると、ヒョウも――クルリと後転して頭を持ち上げ――ピョーンと元気良く飛び起きた。
そこへ――、
「ガァアアッ!」
鋭い牙を振りかざして――再び、黒蛇が突っ込んで来る。
「逃さんぞー、ラムバーダンッ!」
人語を操る蛇というのも十分に不気味だが、それよりも、その叫びの内容を聞いて、ノースはいやーな顔になった。
「やだねぇ、やっぱし俺が獲物なのかよ〜」
苦笑しつつ、ヒョウを抱いて、黒蛇――レイダックの攻撃地点から跳び退く。
跳びながら、グルリと目線を振ると、拡がる青緑の海の狭間に黒い髦が靡くのが見えた。
(――俺じゃ、無理……か)
密かに嘆息する。そして、踵が地面に着くなり、ヒョウの背中をポンッと叩いた。
「おい、チョコヒゲ――」
「?」
不思議そうに見上げてくる――チョコレートでベタベタな顔に、言う。
「お前だよ、ヒョウ。いいかげん口の廻り拭けよ……とにかく、頼みたいんだけどな」
「なぁーに?」
ノースの言葉に、ヒョウは―― 一瞬、ポカーンとしていたが――さらに一瞬後には、大きい目をもっと大きくした。
「おつかい〜?」
「そう」
頷くと、金色の椰子に手を乗せて、掻き回す。
「先行って、取っ捕まえといてくれ」
眼を見て、ニヤリとした。
「――できるだろ?」
「えへへ――」
と、ヒョウ。頭を撫でられ、ご満悦の表情で頷いた。
「うん! わかったー」
そのまま踵を返し、ダッシュ!
走りながら狼犬の姿に変身し、サイズの合わなくなった服を乱雑に振り落とす。
岩を飛び越え、草を蹴り、茂みを踏み分け――あっという間に、視界から遠ざかって行った。
一方。問題の雄馬は――というと、しゃにむに突き進んでいるが、混乱しているせいか進路も方向もまるで定まっていない。まだそんなに距離は開いてない感じである。
人の足――しかも、自慢出来るほど速くもないノースの足では、到底捕まえられたものではないが、ビーストウースで、野犬の脚力を持つヒョウなら、すぐに追い付くだろう。
ただし、そのまま『鬼ごっこ』に持ち込む可能性も、また濃厚であった――現に、ヒョウは散歩を愉しんでいるとしか見えない動きで、ジグザグに駆けていく。
「……大丈夫……だろうな……」
一抹の不安が過ぎり、思わず口を突いて出た。
そのノースの視線を追って――黒蛇も、走り去っていく後ろ姿をチラリと一瞥する。
しかしすぐに戻すと、レイダックは唸り声を上げた。
「ぐふふふふっ……先日の借りを返させてもらうぞ、ラムバーダン」
「おいおい――嬉しそうに言うもんじゃないって……」
仕方なく――ノースは黒蛇に目を向ける。
武器代わりに〈女神の杖〉を構えて、
「……まさか、追っかけてきたのか?」
我ながら間抜けな質問してるなー、と思いつつ、首を傾げた。
「わざわざ?」
「ぐふふふふふっ……」
と、レイダック。何の表情も出さずに――蛇なので当然だが――紅い瞳を細める。
「その通りよ!」
言いつつ、長い舌で鼻筋を舐め回す。
なにやら相当に自信ありげで、「何を偉っそうに……」という、ノースの呟きも聞こえていたかどうか……。
ガバチョと口を開くと、胴で地面を蹴り上げてノースに襲いかかった。
「リリス様やガーデン殿に認めてもらうためにも、ここで貴様を潰してくれるっ!」
(――ガーデン……?)
初めて聞く『推定』固有名詞に、わずかに眉を寄せると、ノースは、後ろに跳んで二度目の罰当たり――〈女神の杖〉で、その巨大な顔面を横殴りにする――をした。
パッと、赤黒い飛沫が散る。
「シャアァァッ!」
苦痛の叫びを上げ、レイダックは身を仰け反らせた。
その間に、ノースはじりじりと後退して距離を空ける。なにしろ、相手がここまで大きいと単純な力比べで敵うはずもない――接近戦は避けようと、体の方が勝手に判断していた。
二歩、三歩、四歩……徐々に歩幅をとって後退る。
と、何歩か下がったところで――、
ズボッと、着いた片足が地面に落ち込んだ。
「!?」
ギョッとして、反射的に引き抜く。
見ると、モグラの巣穴のような深い窪みが出来ていた。
「なっ――」
さらによくよく見ると、周囲一帯の地面に細かい亀裂が入っている。どうやら、かなり地盤の不安定な場所に踏み込んでしまったらしい。草が生い茂っているため気付かなかったのだが、穴はそこら中にあった――もしかすると、黒蛇がズカバカ地面を叩いた影響かもしれない。
「ちょ! ちょっと待てって――」
そう言っても、地面が聞き入れてくれるわけもなく――その間にも、足場は崩れ始めた。
移動しても、すぐにまた、新たな亀裂が発生する。
「グゥ――なんてことだ……」
レイダックが無念そうに呻いて、身を翻した。その振動で、ますます地割れは拡がる。
「おい――っ! 動くなよ、この馬鹿!」
ほとんど半泣きで叫ぶ、ノースである。
あっという間に足下は無くなり――ポッカリと、直径にして四メートルほどの穴が口を開いた。もちろん、有無を言わさず引きずり込まれる。
「ちょ、冗談――」
咄嗟に――〈女神の杖〉を、壁面に突き立てる。これで三回目の罰当たりであった。そんなことを言っている場合ではなかったが……。
とにかく。落下は止まり、地上を見上げる。
五メートルほど上に、逆光に揺れる草が見え――パラパラと落ちてくる砂が目に入った。
一瞬。レイダックが追いかけて来るかとも思ったが、大蛇の姿はいっこうに現れない。多分、巻き添えで落ちることを恐れているのだろうが――、
「さんざん崩しといて、そりゃないだろ〜」
と、口に出してぼやく。
続けて足下を見やるが――こちらは完全に空洞だった。
どうやら、もともと洞穴だったところに薄い地面が乗っかっていたらしい。穴は、底も見えないほど深く広く、そして暗かった。
「……どーしたもんかね」
ノースは、頭上と足下を見比べて、ため息を吐いた。
杖を刺し込んだ壁面は、地表ほどではないにしろかなり不安定で、ここをよじ登るのはかなり難しそうである――かといって、どれだけ深さがあるかも分からない下へ降りるのは、なおさら気が進まなかった。
(……これは、ヒョウが戻ってくるのを待ってるしかないか……)
通常ならとても見つけられそうにないが、犬の嗅覚を持ちつヒョウには容易い芸当だろう。 それに、何故だか自分に懐いてるあの少年は、どんなことをしてでもここを探し当てるに違いない――そういう妙な確信も、ノースにはあった。
(期待しないで、待つかな――)
しかし、そう思ったのも束の間。
杖をねじ込んでいた壁面が、早くも崩落を始めた。
「………………」
ガリガリガリ―と、地面に棒で絵を描く時のような音を発てて、〈女神の杖〉は壁を垂直に掘り下げる。
「最っ悪……」
ノースが悪態を吐いたと同時に、数メートル落下した杖は、固い岩盤に衝突した。
その衝撃で、彼の手は杖の柄から離れ――、
ヒョウと葦毛の馬を地上に、〈女神の杖〉を地中の壁に残したまま、ノースは暗い空間へと投げ出された。