episodo-1 詐欺師と愉快な仲間たち!?
MEMORY 6 王女に真実を、少年に鳩を (2)
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「ば、化け物だー!」
 悲鳴が〈女神の広場〉にこだまする。
 つい十数分前まで、にこやかに買い物やお祭り気分を満喫していた――そんな面影は今やどこにもない。
 人々は我先に、一刻でも早くこの場から立ち去ろうと、もみくちゃになっていた。
 突然出現した巨大な黒い影――それに背を向け、蜘蛛の子を散らすように、大小の通路に殺到する。誰もがその正体をきちんと理解もしないまま、ただ本能的な恐怖に押され、がむしゃらに前に進んでいた。
 そう、よく当たると評判の占い師――アストラルの天幕を突き破って、身の丈5、6メートルほどの生き物が〈女神の広場〉に現れていた。
 ズルリと地を這う流曲形の体躯。それでいて、もたげた鎌首は完全に人型を象っている。
 完璧なまでに生白い肌。見事にそそり立つ双乳――どこから見ても人間の女性である。それが腰の部分から光沢のある外皮に覆われ、大蛇のものへと姿を変えていた。
「ふふふふ……」
 下半身を蛇に転じた女は、耳まで裂けた唇を開き、笑みを浮かべた。
 異様なのはそれだけではない。
 女の黒髪は無数の蛇であった。それぞれが、まるで別の意志を持っているかのように蠢いている。奇声を上げ。四方を見渡し。そして、舌を鳴らした。
「どうした……この身の恐ろしさに声も出ぬか?」
 と、占い師アストラルが――もはやどんなに懇切丁寧な説明を受けても、納得は出来ないだろうが――声音だけは前のままで、眼下に一問を投じた。
 まわりの人間が遁走していく中、声すらも上げずにその場に立ちつくしている少女がいる。
 レナは震えながら、ただ呆然と影の主を見上げていた。隣にはアルが――彼女の華奢な肩を支えて――枯れた巨木のように佇んでいる。
 二人とも、まわりの喧騒がまったく耳に入らない様子で――まるで彼らだけが別の空間にいるようだった。
「まずは自己紹介でもしておこうか」
 レナが答えられないのを確認すると――そもそも返事など期待していなかったのかも知れない――アストラルだった女は、ビシリと尾を振るい、咆哮にも似た声を上げた。
「我が名はリリス。この地の真なる女神である!」
「リリ……ス!?」
 その叫び声に押され、レナはジリジリと後ずさった。今にも卒倒しそうなほど、青白い表情を浮かべ――それでも必死に歯を食いしばると、か細い声を絞り出す。
「じゃ……あ……。ガルーダをさらったのはあなたなのね……」
「さらった、とは人聞きが悪いな……」
 と、アストラル。いや、リリスである。
 ペロリと唇を舐めまわし、血のような色の両眼をニヤリと歪める。
「私は何もしていない。あの女は、勝手に私の元にやって来たのだ。『巫女は私のものだ。私の餌に手を出すな』とな……」
「えさ……? 何を言ってるの?」
「知らぬのか?」
 呆れた、と言わんばかりの表情で、リリス。
「あの女の目的は、お前を喰らい、その外体を己のものとすることなのだぞ」
「なっ!? なんですって!」
 レナは愕然とした。耳を疑う思いで、遙か頭上に鎮座する妖女を仰ぎ、叫ぶ。
「嘘よーっ!」
 ほとんど絶叫であった。
「そんなこと、信じられるわけないわっ!」
「姫様。危のうございますっ!」
 アルが手首を掴み、必死に後退させようとするが、その手を強引に振り解くと――額に汗を滲ませながらも――レナはリリスに詰め寄った。
「ガルーダがそんなこと言うわけ無いじゃない! でたらめ言わないで!」
「ふふふふ……愚かな娘だ」
 拳を振り上げるレナに、リリスはほくそ笑む。
「では、なぜガルーダは王家の守護者など気取っているのだ? 何の見返りもなく他人を護るなど、正気の沙汰ではないぞ」
「――それはガルーダがこの国の女神だからよ! 神様が人間を守ってくれるのは当たり前でしょ」 
「フン――神か……」
 自信に溢れた口調の――自分の言葉に何の疑いも持っていない――レナに、リリスは馬鹿にしたような視線を向ける。そして後を続けた。
「ならばその神は、王家の危機という有事に何をしたのだ? ゲリラどもが王宮に火を放った時、奇跡のひとつでも起こしたか? おかしいのではないか? 王家を護るのが当たり前なのだろう?」 
「そ、それは……」
 と、レナ。決定的ともいえる矛盾を指摘され、途端に言葉を詰まらせる。震える拳を降ろし胸元に抱き寄せると、睫毛を伏せて、消えそうな声量で呟いた。
「……それは……あなた達がガルーダをさらったから……それで……」
「ならば、もっと恐ろしい事実を認識させてやろうか?」
 と、リリス。
「――ガルーダを更迭し、私の元に連れて来たのは、誰であろうお前の父親……すなわちバランゲル八世なのだぞ」
「――!?」
 レナの双眸が大きく見開かれた。声無き悲鳴を上げ――瞬間、吐き気を覚えるほどの強烈な目眩が襲い――両手で口を覆う。
 今までで一番強い衝撃を受けたのは明らかだった。
「……そんな……ことって……」
「嘘だと言うのか?」
 と、リリス。
 さも愉快だといわんばかりに眼を細めると、さらに追い打ちをかける。
「では、なぜ国王は女神と共に姿を消したのだ? なぜ娘のお前を置いて、行方をくらます必要がある?――なぜクーデター騒ぎが収まった今でも姿を現そうとしないのだ?」
「……そ、そんなこと言われても……わたし――」
 もはや、その執拗な問いに、何の解答も見出すことができない。実際そんな余計なことを考える容量はまだ彼女にはなかった。まだ汚れてもいなく、本当に傷ついたこともない彼女の心。内より沸き上がる声と、外から通り抜けてくる音が、ただまぜこぜに渦を巻いている。どれだけ時間を費やそうとも、それが形を成すことはなかった。
「わたし……」
 分からない……分からない――と繰り返し、レナは首を振った。身体がガクガクと震え、息も出来ない。半分失神状態、半分パニック状態で、ただ同じ単語を鸚鵡のように呟いた。
「姫様! お気を確かに! このような化け物の戯言。信じるには値しませぬ!」 
 その両肩を揺さぶり、アルが懸命に叱咤する。だが、彼自身、やはり顔面は蒼白だった。
「聞いてはなりませんぞ!」
「……わた……し」
 たしかに、彼女の耳にはもう何の言葉も聞こえていないようだった。
 力強い励ましも。
 遠くなった悲鳴も。
 別の方向から流れてくる喧騒も。
 そして――
 その後の言葉も。
「奴が最期に何と言ったか教えてやろうか?」
 リリスは嗤った。
「『助けてくれ、王の座はやる。なんでもやるから殺さないでくれ』――だ。陳腐にも程があると思わぬか?」
「………………」
 誰も答えなかった。
「まったく愚かだぞ。王という人種は――ガルーダを差し出せば王座は保証はしてやると言った途端、私にすがりついて来たというのに。半時で、またそれを覆せるのだからな」
「あぁ……!」
 絶望した叫びが上がる。
「なんということだ!」
 大きく頭を振って、アルが――腕の狭間に視線を落とし――息を吐いた。
 レナは目を瞑じている。その、涙に濡れた頬を優しく撫でて、アルも泪した。
「姫様……おいたわしや……」
「――まだ眠るには早いぞ」
 と、リリス。哀れむように――ちょうど絵画の中の女神がそうするように――両手を差し伸べる。邪悪なはずの瞳には、慈愛にも似た穏やかな光が宿っていた。
「お前には、これから存分に役立ってもらわねばならぬのだからな……それに、約束も果たさねばなるまい――言ったであろう? ラムバーダンがどれほど危険か教えてやると……」
 呟き、その両眼を静かに閉じる。
 瞬間。
 空気が凍った。音の伝わりすら遮断されて、辺りは沈黙に包まれる。それはまるで、目に見えない鎖で、空気をひとつひとつ縛り付けたようでもあった。いや、もともと張り巡らされた蜘蛛の糸。それが不意に輪郭を現した――とする方が的確だろうか。 
「――姫様!」
 異様な雰囲気を感じ取り、アルはレナを隠すように立ちはだかった。
「おのれ化け物め! 姫には指一本たりとも触れさせぬわ!」
「……愚かな……」
 それはたしかに女神の囁きだった。
 静かで、穏やかで、何の感情もない音。
「女神を害することは何人にも出来ぬ……」
 幾ばくかの間をおいてリリスが再び瞳を開けたとき――、
〈女神の広場〉は赤い閃光に包まれた。

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