――私も、ラムバーダンだからな――
それを正しく理解するには、かなりの時間が必要だった――もとより脳が拒否していた。
もしかしたら、人間というのは本当に聞きたくない情報は聞こえなくなるよう出来ているのかもしれない。もちろん実際に聞こえていなかったわけではないが、ただ、いつまで待っても、夢の中で聞いた話のように現実にたどり着かなかった。
――父の死にまだ実感が湧かないのと同じに。
そんなレナがまずしたことは、惚けた声を出すことだった。
「ふぇ?」
その後はまるで演技である。
一、俯く。前髪が頬に刺さるほどの角度で。
二、視線は床に固定。でも焦点はどこにも合わせない。
三、汗も忘れずに。
四、そのまま合図があるまで待機。なるべく瞬きはしない。苦しいだろうけど息も止める。
――そんな感じだった。
たっぷりと間を置いてから、おずおずと顔を上げる。
「……今……なんて言ったの?」
「私はラムバーダンだと言ったのだ。もっとも『だった』と言う方が正しいがな」
「……だった……?」
繰り返し、言葉が紡ぎ出される場所をじっと見つめるレナ。
しかし、その視線が狂気の宿る瞳に移り――、
(瞳――紅い瞳……そうよ!)
瞬間。彼女は我に返った。
「でたらめよ……」
「ん?」
「でたらめ言わないでって言ってるのよ! あなたどこがラムバーダン人だっていうの!」
それまでの鬱な様は何処へやら――猛然と噛みつく。
切り替えが速い分、感情の起伏が激しいのが彼女の特徴であった。
「その瞳の色! それは何なのよ! それにノースはあなたみたいな魔物じゃないわっ!」
「ふふふふ……つくづく愚かな娘だ」
と、リリス。
「まぁ、仕方あるまい……この姿ではな……」
そう言って、自らの巨体を見渡すと、諦めにも似たため息を漏らす。
「わたしとて、かつては……そうだな、あのラムバーダンと似た物を持っていた。もう百年も前の話になるが」
「ひゃ、百年前……」
人にとっては一生以上の年数である。あまりに突飛な数に、レナはまた言葉を失った。
その心中を知っているのか、リリスは頷きもせず淡々と後を続ける。
「あの日――私は崩れゆく外体を棄て、この姿を新たな器に選んだ。滅び行く種族の哀れな末路が、この身に及ばぬようにな」
「あの……日?」
「お前達人間が、『災厄』と呼ぶ日のことだ。知らぬ訳ではなかろう?」
「〈ファーストプレイスの災厄〉……」
「そう、それだ。しかし、いかにも人間が好んで付けそうな、大層な名だな」
嗤うリリス。
「まるで予期せぬ災い――天から来た罰のようではないか?」
「違うの?」
と、レナ。
「違うとも」
と、リリス。
「あれは、ひとりの裏切り者が起こした事故――いわば茶番だ。そのしっぺ返しを、十九万の同朋すべてが被ったに過ぎない。結果、ラムバーダンのほとんどは消滅し、世界は不安定な支配を受け入れざるを得なくなった」
「言ってる意味がよく分からない……」
レナは困惑した表情で首を振る。
「結局どうして滅んじゃったの?」
それが、自らを決定的に追い込むことになるとも知らず――素直に疑問を口にする。
怒りも恐怖も無く、ただの好奇心だった。
だが、リリスにはこの上なく滑稽な問いでもあった。
蛇の髪を持つ女神は、今までになく柔らかに綻ぶと、スルスルと大蛇の胴体を滑らせてレナの背後に回り込む。
優美な指で少女の銀の髪を持ち上げると、隠れていた耳に口を寄せ、小さく囁いた。
「……殺し合ったのさ」
「え?」
レナの言葉はそこで完全に途絶えた。同時に表情も止まる。
気持ちと一緒に体温までが下がったようだった。
(コロシ……合ったって……殺す……そういうことなの? でもそんなの……そんなわけ……)
色んな想いが浮かんでは消えていくが、まともな形にすることも、それを口から出すことすら出来なかった。
ただ視線のみを、恐る恐る横に差し向ける。
それは正に、女神に救いを求める子羊の目であった。
「ようやく黙って聞く気になったようだな」
最高の反応に、リリスは機嫌良く――まるで幼子をあやすように少女の後ろ髪を撫でつけた。
「では聞いてもらおうか。その上で、己の無知さを恥じるがよい」
そして、女神は語り始めた。
それは〈災厄〉よりも遙かに昔。ガルーダの巫女自身はもちろんのこと、まだバランゲル王家という存在自体がなかった頃のことである。
世界は、ラムバーダンと言う名の魔物に支配されていた。
『支配』とすると、まるで己の思うがままに人々を虐げていたかのようだが、そうではない。彼らが行っていたのは管理――環境の安定と、世の平穏である。
天災を抑え、人的災害を防ぎ、治水を整え、実りを豊かにする。凍えることもなく、日差しに灼かれることもない。飢えることもなく、争いもない……それは人々が等しく望む『平和』そのものであった。
「皆、我々を神の使いか、神そのもののように崇めたものだ。神の愛、『慈悲』とな――当然だろう。見返りを求めるわけでもなく、人間を使役するでもなく、己の利点にならぬことをひたすらに続けていたのだからな。人間達は、その無償の愛を貪り、今日までのさばってきたというわけだ」
ただ、その管理はあらゆるところに及んだ。
どの国のどの町に誰が住み、どの職に就き、誰と婚姻したか――その程度は序の口である。
どの店で何が売られ、それを誰が買い、買った品をどう使うか。また、その品が何処で作られ、何を材料とし、材料はどこでどうしたのか。昨日何を食べ、何回排泄したのか……など生活の一切、枝葉の全てを記録された。
果ては、生まれるまでにまだ幾月もある子供の性別まで調べられたのである。
それは人々が望む『平和』ではなかった。たとえそれが『平和』を維持する為のものであったとしても、結果としては苦痛しか残さなかった。『平和』というものに何の形も刺激も無いことが、なおのことそれを際立たせてもいた。
やがて、人々は苦痛を屈辱と感じ、平和を虜に置き換え、慈悲を蹂躙と考えるようになった。
誰しもが、ラムバーダンから逃れたい、魔物を消し去りたい、と腹の中で思っていた。
だか、それを口走る者は誰ひとりとしていなかった。
口に出せば、それは記録される――すなわちラムバーダンの耳に届くことになる。そうなれば無事に済むわけがない。相手は魔物であり神なのだ。抗うことなど出来るわけがない。
誰もがそれを理解していたのである。
強制は無い。虐げられたことも無い。
世界を変えるという力を目の当たりにした者もいない……。
それでも、皆がラムバーダンを恐れていた。
「何故か分かるか?」
問われたが、レナに答えられるはずもない。
むしろ、それを伝えることすらできなかった。
リリスは、しばらくは待ったが、不出来な生徒が答えられないのを見て取ると、諦めたように自らの解答を示した。
「――それは目だ」
ラムバーダンなら、そのすべてが等しく持つ薄紫色の瞳……あれは飾りではない。
無論、人間の目も飾りで付いているわけではないが、それとはだいぶん意味が違った。
通常、目とは〈ものを見るため〉の器官である。形状や機能の詳細は異なっても、そのこと自体は変わることはない。ラムバーダンの目も、まずその原則を外れることなく、役割を果たしていた。
ただ、その目でものを見ていたのは、付いている本人だけではなかった。
その先にいる誰か――ひとりかどうかは定かではない――が、ラムバーダンの瞳を通して世界を監視していたのだ。
誰かとは一体何者なのか、そもそも本当に存在しているのか――それを知るものはいなかったが、多くの人間は、それこそが神なのだと信じていた。事実、ラムバーダンの視線を合わせた者は、誰しもが一対一の向こうに別の存在を感じ、無言の威圧感を受けていた。
どこからか放たれ、どこへでも届き、どこにも存在せず、どんな形も持たない、視線という名の神の槍――故に〈無機の神槍〉である。ラムバーダンの瞳が、時にこう呼ばれるのはその為だった。
その瞳を持っていることが、神か魔物の使い、もしくはそのものである証。
人々は、自らそれを認めていたのだ。
「我々の誰も、従え、ひれ伏せなどと言った覚えはない。人間共が勝手に服従していただけだ。勝手に従い、勝手にひれ伏し、あげく勝手に勘違いしていた。『ラムバーダンは人の世に蔓延る害悪だ』とな。いささか手前勝手すぎるとは思わぬか?」
「じゃあ……」
と、レナ。ようやく一言だけ絞り出すと、リリスの独白の間に投げ入れた。
「やっぱりラムバーダンは魔物じゃないのね……」
「いいや」
きっぱりと否定する、リリス。
「魔物だよ。ただし、そうなったのはあの日からだがな」
「ファーストプレイスの災厄……」
「そうだ。あの日、行われていたのは、ひとつの祀りだった。祀りと言っても何てことはない。お前たち人間に置き換えれば、『成人の儀』程度で、さほど特殊でもなければ、珍しくもない。ラムバーダンなら誰しもが行うものだ。ただ、その日は、ほぼすべてのラムバーダンがひとつ所に集まっていた……それが、いわゆる悲劇の元となった」
「悲劇の元?」
鸚鵡の様に、言葉尻を繰り返すレナに、リリスもまた、繰り返し頷く。
「そうだ。あの日、セーマ――これも分からぬか? まぁ、ラムバーダンの成人称のようなものだ――そのセーマとなる者が新たに披露されることになっていた。本来なら、大袈裟に披露会など行わないのだが、そやつが幼生体だったのと、それ以上に指揮を執ったのが変わった輩だったというのもあるが……ともあれ、皆が物珍しさにつられそこに集まった」
「……あなたもそうなんでしょう?」
「私は違う。確かにあの場はいたが、物珍しさなどではない。そもそもが私の意志ではない。命じられて留まっていただけだ」
「命じられて?」
リリスに物が言える存在があるのが意外だったのか、レナの言葉には幾分皮肉げな響きがあった。それを感じ取り、リリスは、クスリと笑む。
「私は、その幼生体の母親の副だった。いわば、子供の社交デビューに浮かれる親の代わりに、パーティーの受付をしてやっていたわけだな。あの方は素晴らしいセーマであったが、やけに人間に被れてもいた。乙女の様に奔放に振る舞い、母のように子供に愛情を注ぐのを好まれた。私には理解不能な行動だったが、それでも私はあの方を尊敬していたし、それもまた至高のセーマたる者の資質なのだろうと思っていた」
そこまで言うと、リリスは「だが……」と言葉を句切った。ギリリと歯を食いしばると、憎々しげに虚空を見やる。
「だが――あの方は裏切られていた。こともあろうに、その幼生体自身が罠だったのだ!」
それは真底からの叫びだった。
同時に、宿主の殺気を受けて、それまで静かだった頭上の蛇たちが激しく舌を鳴らす。
不協和音に、レナは震え上がった。
「――罠は、幼生体がセーマとなることで初めて姿を現すものだった。だから誰も気が付かなかったのだ……。そこでは本来行われるべきものが、すべて逆転していた。外から内へと向かうモールが、内から外への流れに変わり、内から外に伝えられる情報が、すべて外から内に引き込まれた。一瞬でほとんどのセーマが容量を喰われ、外体を維持する術を失った……」
すでに、リリスの語りは少女に言い聞かすものではなく、己のために記憶を辿っているに過ぎなかったが、内容は分からずとも、何か異常が起こったことを理解するのは容易かった。
「……それで……みんな死んじゃったのね」
至極単純だが、自分なりに要約した上での結論である。レナは、ある種の自信を持ってそれを口に出した。
「それが、ファーストプレイスの災厄……」
「半分だな」
と、リリス。
「確かに、外体を失うのは死と同義。ほとんどのラムバーダンはそれで消滅した。だが、残った者もあった……私のようにな。容量の一部が喰われずに済んだため、外体の消失を免れた」
「その人たちが、今生きているラムバーダン人じゃないの?」
「だから半分だと言っておろう。完全な消失を免れたといっても、無事に済むわけがない。最後に到達する場所は同じ……一瞬か、そうでないかの違いだけだ。結局、残った者も、外体の崩落を止めることは出来なかった」
「それじゃあ……」
「残った手段は二つ――」
と、リリス。レナを押さえ込むように、幾分か語気を強めた。
「ひとつは、機能しなくなった外体を棄て、別の外体に移ることだ」
そう言うと、リリスは上体を起こし、レナの傍らから正面へと移動した。まるで、自らの姿を誇示するかのように、少女の視界に全身が入る位置にまで後退する。
上半身は人。しかし、腰から下は大蛇のそれ。見事な曲線を描く裸体は、やがて不気味な紋様を描く鱗へと変化している。彫刻のような美しい貌も、それを彩るのは緑成す黒髪ではなく、無数の蛇――。
それは、存在することのない生物。空想の中だけに登場する魔物に他ならない。
「分かっただろう? 私が新たな器としたのがこの姿なのだ。私の長であった方は、合成体の権威でな。これは実験用に保存されていたものだ。もちろん好んでこれを選んだわけではないが……」
悲しげにも見える笑みを浮かべ、リリスはその場にとぐろを巻いて座る。
「同じように外体を変えることで生き延びた者はいる――ただ、多くはない。もともと外体は簡単に取り替えられるものではないし、成功したとしても、モールの波長を合わすのは難しい。ラムバーダンでなくなった以上、セーマでもなくなるわけだからな。もはや神の力など無い。そうなると成功か否かは運次第だ。恐らく、上手くいった数は二十にも満たないだろう」
「じゃあ……」
再び、レナが口を入れる。
今度は――リリスも、彼女が言い終わるまで待っていた。
「他の人たちは……ノースはどうやって生き残ったの?」
「それがもうひとつだ」
開口と共に立ち上がる。
「容量を喰われ、欠けたことで外体を維持出来ないなら、欠けたものを補ってやればよい」
音もなく胴を滑らすと、レナの隣に寄り、怯える両眼を覗き込んだ。
「――だがどうやって補う? 仮にも〈人間〉を作るだけの要素だぞ。そんなものがどこにある? 水のように湧出するものではない。大気のように流れてくるものでもない。あるのは欠けた容量しか持たぬ中途半端なセーマの成れの果てのみ……さて、どうしたものかな?」
それだけ言うと、リリスは何かを期待するかのように目を細めた。
面白がっているようだ、とレナは思った。まるで幼子に謎かけをする母親のように……。
いや、思い過ごしではない。女神は面白がっていた。
そして、レナはそれを悟った。
「まさか……」
「そうだ」
リリスが静かに頷く。
「隣にいる成れの果てから奪ってくれば良い。どうせ、放っておけば朽ちていくだけなのだからな。崩れてしまえば、もはやセーマでもラムバーダンでもない。ならば、消失する前に使える容量を回収してしまう方が、有益というものだろう」
「!?」
それでハッキリと理解する。
殺し合った――その言葉の意味を。
「その後、どうなったのかは私もよくは知らぬ。ただ、最初の一瞬でかろうじて消失しなかったのが数千……そして、現在残っているのが数百だ。いかに凄惨な奪い合いが行われたか、容易に想像がつこう? そんなものは人の行う所行ではない。魔物のやることだ――分かっただろう? 今、存在しているという事実そのものが、ラムバーダンが魔物であるという証なのだ。お前が、自分を護ってくれる存在だと思っているラムバーダン……あれとて、その外体は奪ってきたものでできている。他者の血肉にまみれているのだよ」
「でも……」
と、レナ。辛うじて残された希望にすがるように、全身を振るわせる。
「でも、本当に殺し……奪い合ったかは分からないんでしょう? いくらなんでも、誰かを簡単に殺すなんて出来ないはずよ!」
「レイダックはあやつに殺されたのではなかったか?」
リリスがピシャリと、この上なく冷静に呟いた。
「!?」
それは冷水を浴びせられたのと同じだった。急激に体温が下がる。
体中の血液が凍り付くような感覚に、レナは自分が座っているのかすら分からなくなった。
「レイダック……」
それはあの大蛇――いや、大蛇の姿を持つウースの青年だ。
マーカーバレイで、自分とアルとを襲った刺客。
そして、ノースに殺された男だ。
(ノースが躊躇することもなく殺した男……)
「奴はレイダックを殺す必要はなかった。だがそうした――それはなぜだ?」
「………………」
レナは答えられなかった。
黙って、リリスの言葉を聞いていた。
「簡単だ――殺したかったのだよ。当然だろうな。すでに何百と繰り返してきた行為だ。もはや習癖も同然。今更何を思い悩むことがある?」
どこかで、そうではない、と叫ぶ自分もいた。
だが、レナはそれを押しのけると、ひとつ線を引いてしまった。
もう何も聞きたくなかった。
心に引いた線――。
それは、二度と消えることのない〈境界線〉であった。