
「どうやら事が済んだようだ」
不意に、リリスがほくそ笑んだ。
同時に、礼拝堂の扉が、音もなく開き――、
「……?」
レナが顔を上げると、そこには無言でたたずむ兵士の姿があった。
先程の青年だ。黒髪と、それと同じ色の外套とで身を包み、なぜか少し煤けた様に白くなっている。しかし、月光に照らされてなお白い顔からは、何の表情も窺い知れず、彼がどこで何をしてきたかなど知る術はなかった。
それでもリリスは満足げに頷くと、レナに向き返った。
「他愛もなかったな」
「まさか……そんな……」
レナは、目を見開いて立ち上がろうとする。
もちろん縛られたままでピクリとも出来ないが、気持ちは立ち上がっていた。その視線は、食い入るように兵士へ――正確には、その左肩へと注がれる。
影のように立つ兵士の背には、何者かが担がれていた。
若い、少年のような男である。
髪はあまり長くはない……それ以外はここからではよく分からなかった。男はボロボロな姿で、ガクリと頭を落としている。
「!?」
反射的に、レナは彼の名を呼びそうになったが――、
それより先に、兵士が彼を投げ降ろした。
(違う……)
ドサリと音をたて板張りの床に倒れたのは、レナの見知らぬ顔であった。
唯一知るラムバーダン人には似ておらず……むしろ、黒髪のためか、どこか兵士とダブるところがある。なによりも、見かけの年齢がノースとは全然違った。
その自分と同年代の少年は、短い黒髪を無惨に散らし、埋没する程に頬を床に擦り付けている。気絶しているのか――まさか死んでいるのか――微動だにしなかった。
(ノースじゃない……)
それを確認すると共に、安堵にも似た気持ちが沸き上がってくる。そんな状況でないのは分かっているのだが、表情を弛める自分を止めることは出来なかった。
一方、リリスはその紅い双眸を、さらに冷たく細めた。
「どういうことだ。ラムバーダンはどうした?」
その視線が、兵士と少年とに突き刺さる。
「申し訳ございません――」
兵士が頭を垂れると、彼の言葉を継ぐ様に、少年が掠れた声を上げた。
「……なんだ。まだ来てねぇのか? 折角時間稼いでやったってのに、どこで道草食ってやがるんだあいつ……」
打ち身の跡だらけの腕を掻き寄せると、なんとか頭だけを持ち上げる。
その目が――彼を凝視していたレナと合うと、少年は犬歯を見せて笑みを返した。
「よぅ。レナさん……だっけか?」
「あ!? あなた……?」
いきなり愛称で呼ばれたことに驚いて、レナは怯えた声を出した。
少年が答える。
「デフリー。ただの大道芸人さ」
初めに名前を言ったのは、ノースに『名前が分からないと話しづらい』と諭されたためなのだが、そんなことをレナが知るわけもなく、彼女が不安の表情を晴らすこともなかった。
「大道芸人……?」
「――ラムバーダンに、こてんぱにやられただけのな」
「えっ!?」
目を丸くするレナに、少年――デフリーはいっそう破顔する。だが、満身創痍で、額や口元にも血が滲んでおり、その笑みもまた、彼女には痛々しいものにしか見えなかった。
それでも言葉の中に気に掛かるポイントを見つけ、レナはデフリーに話しかけた。
「ラムバーダンって――」
しかし、その続きはリリスによって遮られる。
「どういうことだ?」
リリスは語気を強めると、長身の兵士に先程と同じことを問うた。
「ホリー、ラムバーダンはどうした?」
長身の兵士――ホリーが返答する。
「……今一歩のところで、こやつに邪魔立てされまして……」
「逃げられたのか?」
「申し訳ございません」
頭を下げたまま、淡々と報告するホリーである。
「屋敷内に潜伏しているものと思われますが」
「えぇい……小賢しい!」
リリスは苛立って、髪――無数の蛇をくねらすと、尻尾で床をピリャリと叩き、
「デフリー、お前どういうつもりだ! 私を裏切るというのか!」
と、床に伏せる少年にも怒声を浴びせた。
「裏切ったわけじゃありません」
デフリーは、俯せの体勢のまま静かに笑むと、あっさりと――だが、敬意を籠めた口調で、丁寧に答えた。
「分からなくなっただけです。あなたの目差す理想や、何が正しいのかが。あなたが邪悪と称するガルーダやバランゲル王家が本当に邪悪なのか……危険だと言うラムバーダン人が本当に危険な存在なのか。そもそも、あなたを信じていていいのか分からなくなっただけです。だから、まず初めに戻そうと思ったんです……」
一度嘆息してから、後を続ける。
「これは俺なりに考えた結果です。お怒りになられるでしょうが、もう決めたことです」
「馬鹿者が!」
憤慨するリリスである。
「お前は、それでもこのリリスの息子か!」
「あ、あなた!?」
思わず、レナは仰天した声を出した。
金色の瞳を見開いて、似ても似つかぬ容姿のふたり――蛇女と少年とを見比べる。
「親子……えぇっ!? ちょっと!」
そのレナの叫びを無視し、デフリーはリリスにニッコリと微笑んで見せた。
「実は、それも分からないくらいですよ――ははうえ」
「黙れ」
その背中をホリーが蹴る。デフリーは寝返りを打つ様に転がった。
「うっ……」
仰向けになり、そこへ二投目が打たれる。まともに鳩尾に食い込み、デフリーは、くはっ、と息を吐いて、身体を折り曲げた。
「――やめて!」
レナが悲鳴を上げる。
その声は三度目の蹴りと重なり、鈍い音を覆い隠す。
だが、行為そのものまで消せるわけもなく、デフリーは苦痛に顔をゆがめ、床を這い回った。
「やめてって言ってるでしょ!」
レナの制止の声に全く反応を示さず、長髪の兵士はなおも少年を蹴り続ける。終には壁際に追いやり、止めとばかりに大きく蹴転がした。
ドン――と派手な音を立てて、デフリーは石積みの壁にぶつかる。両腕を力なく投げ出すと、そのまま動かなくなった。かすかに上下する肩が、息の所在を示しているが、それ以上は何もできそうになく、口を開くこともない。
「やめなさいよ! 怪我人にそんなことをして……あなた、戦士のプライドとか無いの!?」
「…………」
レナの罵声に何か引っかかるものがあったのか、ホリーは――なおも蹴りを入れようと半分持ち上げた状態で――足を止めた。そして、傷だらけの少年に冷たい一瞥をくれてから、踵を静かに床に戻すと、彼を置き去りにして妖女の元へと引き返す。
リリスの隣にまで戻ると、何の感情も宿らない双眸をレナへ向けた。
(……なによ)
レナは、何とも形容しがたい居心地の悪さを感じ、目をそらす。それは、自分の身代わりに少年が傷つけられたのではないかという直感から来たもので、他にぶつけようもない罪悪感となって彼女を苛んだ。
それでも、視界の端で横たわる少年が、僅かに手を握るような仕草を見せると、彼女はホッと安堵の表情を浮かべた。
「よかった……」
「――お優しいことだな」
リリスが、紅い唇をニヤリとさせる。
すっかり気分を良くして、蜷局に巻いた胴体の上から、レナを見下ろした。
「だが、お前がやったことは無駄だったようだ。どうやらラムバーダンは尻尾を丸めて逃げ出したらしい……。巫女殿の期待も裏切られたと言うわけだな」
「どうだっていいわよ! そんなことあなたに関係ないでしょ!」
「ふふふふっ……」
いつになく棘のある口調で切り返すレナに、ことさら満足げに頷く。
「おやおや、何をお怒りなのだ? 可愛い顔が台無しだぞ」
「ほっといてよ。この人でなし!」
「ふふふ……」
もちろん、リリスに動じた様子は少しも見られない。むしろ楽しそうに咽を鳴らすと、母体に同調してシュルシュルと舌を出す蛇たちを、ひとつひとつ撫でまわした。
「まあよい。そろそろ潮時だな。順に始末してくれようか……」
「――!」
その言葉に、レナはビクリと肩を震わせる。
さすがに威勢を削がれて言葉に詰まるが、なおも無言のまま半人半蛇の女を睨みつけた。
「まずは――」
と、リリス。
残虐非道としか言いようがない恐ろしい顔つきで、堂の中に視線を巡らし――、
やがてその目は、ひたとデフリーを捉える。
「裏切り者からだ」
言うなり、巨大な胴体をほどいて、上半身を高く――抜け落ちた天井にまで持ち上げた。
瞬く星をバックに、一同を見渡す。
同時に、周囲の温度が下がり始めた。いや、かすかに聞こえていた虫の音や風の音が消え失せたのだ。朽ちた礼拝堂は、耳鳴りがする程の、寒々とした静寂に包まれる。
「…………子供……なんでしょ」
その静寂を打ち破るべく、レナが力のない声を挟んだ。
異様な空気――まだ記憶にも新しい――に不吉なものを察知し、なんとか試みた時間稼ぎであった。
「息子だって言ったじゃない。自分の子供を手にかけるっていうの!?」
「なればこそだ。我が子の不始末は親が処理しなければな。この母が、直々に手を下すのだ。さぞや嬉しく思うことであろう」
とんでもなく一方通行な理屈でレナの説法をあっけなく斬り捨てると、リリスはデフリーを正眼に見据える。蛇たちも、一様に首をもたげ、怪しく目を光らせた。
数十もの紅の瞳――リリス御大のものも含め――が静かに閉じられる。
「ああ……駄目!」
自分の力の無さに涙を零しながら、レナはそれでも一心に抵抗を試みる。
「駄目よ……」
だが、もはや気の利いた言葉など何も出て来ず、女神の気を散らすことなど到底不可能であった。
「――逃げて」
とっさにそう呟いたのは、その後をすでに知っていたからだ。
少年が、足元に倒れる石像と同じ顛末を辿るであろうことは、想像に容易い。
「逃げて!」
しかし、デフリーは横たわったままで、微動だにしなかった。まともに意識があるのかすらここからでは分からない。仮に意識があったにしても、体の方が動かないのだろうが。
「お願い、逃げて!」
その三度目の声を合図にするかの様に、リリスが瞳を開いた。
瞬間――。
女神の全身から光が放たれ、堂の内部を紅く染め上げた。
両眼からは、一際強く、一層禍々しい深紅の光が迸り、目標へと一直線に放たれる。
「!」
紅い光は、あっという間に少年へ到達し、熱量や音を伴わない激しい雷となって、室内に炸裂した。
「あぁ……」
視界一面が紅き輝きに包まれる中、レナは愕然と肩を落とした。
(同じだわ……アルの時と……)
蛇の睨み――リリス自身が〈邪眼〉と呼んだそれは、人を石像に変える呪詛の視線であった。
どのような仕組みかは、レナには皆目見当が付かない。そもそも、そんな魔法の様な現象が起こることすら信じられないくらいである。理解のしようもなかった。
それでも、この閃光が彼女の衛士を無惨な姿に変えたのは事実である。目の前の少年もまた同じ羽目になってしまったことだろう。
(なんてことなの……)
レナは、うなだれたまま、怒りとも悲しみともつかない深いため息を吐いた。
「くっくっ……」
残光の中、リリスが嗤う。
レナが憎々しい表情で睨め上げる頃には、その瞳に宿るのは、ただ邪悪な光のみになっていた。
「愚か者の末路だな」
「何を――」
ほどなくして光りは散じ、礼拝堂は、蝋燭の火と月明かりだけの、本来の明るさを取り戻す。
同時に、
ゴトッ――
鈍い音を立てて、板張りの床に、石が落下した。
「な――!?」
声を上げたのはリリスである。
心底驚いたように目をひん剥いている。むしろ、泡を食っていた。
その向こうにたたずむ長髪の兵士は、声は出さないものの、やはり驚愕して棒立ちになっていた。
二人とも、ある一点に視線を釘付けにしている。
「え?」
レナはその双方を何回か見比べた後、ゆっくりと、視線をそちらへ差し向けた。
「……!?」
そこには、未だ生身のままのデフリーが、ポカーンと口を開けて、鼻先に落ちたそれを見やっている姿があった。
最後の瞬間に渾身の力を振り絞ったのだろう。肘を突っ張って、上体を起こしている。そのどこにも石化を感じさせる要素は無かった。
果たして――彼を含め、その場にいた全員の視線が、そこに集まる。
床に、一枚の石板が倒れていた。
縦横それぞれ五十センチほどの、手で持てる適度な厚さの板。
表面に細かい模様が刻まれており、気のせいか、礼拝堂の壁を飾る飾り硝子に酷似している。
「これは……?」
デフリーが板に手を伸ばす。
と。
「あ〜ぁ、反射はしないのか。けっこう期待したんだけどな」
いきなり、場違いなほど素っ気ない声が、堂に響き渡った。
「蛇女の視線を鏡を使って跳ね返した――って話があったような気がしたけど?」
「あれはただの挿話じゃ。それに、これは視線ではない……初めから当てはまらぬぞ」
返答する別の声に、
「せきかこーせんじゃないの〜?」
なにやら底抜けに明るい声まで加わって、全く緊張感のない会話になる。
「!?」
デフリーが顔のみを振り向かすと、開け放したままの戸口に、ふたつの人影とひとつの犬影がたたずんでいた。
「お前――」
だが、彼がその先を言う前に、レナがその名を呼んでいた。
「ノース! ヒョウ!」
一度息を飲んでから、一際大きい声で叫ぶ。
「――ガルーダ!!」
[つづく]